昭和五十六年七月四日 朝の御理解


御理解第六十九節
信心は容易い者じゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ちゆこうが。みやすう信心をするがよいぞ。


 信心の稽古も構えがでけたら容易いのですね。ただおかげおかげという手、おるといわゆるおかげは受けるのは容易いとおっしゃってはいない。信心は容易いとおっしゃっておられます。だから信心もね、いうならば、お道で云う信心ね。お互いの信心が段階をおうて段々進んで行くと云うこと。結局は生神金光大神を目指しての信心。それがお道の信心。
 だから信心の頂こうと信心の稽古をさせて頂こうと構えを作ると容易い。しかも楽しうなってくる、有り難うなってくる。それこそ愉快にさえなってくるという。どうでも皆さん信心の構えを作ると見やすいんです。ね。
 昨日小向地区の共励会でした。昨日の朝、林さんがお届けされますのに、あちらの息子さんですかね、林君がその小向の方はあちらはおじさんの家になりますから、その小向の大塚の家のお夢を頂いた。それが立派なお風呂があるんだけれども、お風呂が汚いものが浮いていて、入られないと云うお知らせである。極楽と云ったお風呂といいや、それこそ極楽と云うことでしょう。まあ大塚さんのお宅を云うと、まあ一切のものに恵まれておられると云う感じですよね。いろいろおかげを受けておられる。
 ですからもう本当に、喜ぼうと思ったら喜びいっぱいの家庭なのですけれども、汚いものが浮いておるから極楽にならん、汚い物とはどういう事でしょう。教えの鏡を立てますと自分の心のいたらなさ汚さが分かって参ります。
 信心はそれを気付かせてもらうて改まっていき、取り除いていくことなんです。もう云うなら御礼ばっかり申し上げねばならないようなおかげを頂きながら、不平不足に満ちた日々を過ごしておるというのです。こんな残念な事はございません。そこに信心の稽古があるのですね。ああ自分のこういう汚い心と思うたら鮴除くことに、一生懸命精進しなきゃ、ここは自分があらたまにゃと気付く、それがね、構えが出けとらんと取り組まんです。ただおかげの方、改まらんなりにおかげ頂いた方がよかごたる感じがするわけですね。
 昨日は梅の実会でもございました。え、梅の実会の若い奥さん達ばっかりのかいですが、久留米の野口さんが昨日参拝してきてから、お知らせを頂いたのが、梅の実会の人達は辛抱力がないから梅の実会と云う命名を頂いたと云う意味の事を頂いているんです。こりゃ確かにそうです。私の知っておる限りにそこの教会のこれが芯だと云われるようなものが、その教会には欠けております。だからその欠けておるものが満たされた時には、その教会は大変御比礼になるわけですね。
 ですから梅の実会の方達が、各々はぁ、自分には本当に辛抱力がない。本当に辛抱力を頂く、云うならば、信心の構えを作ろうと云うことになったら、その辛抱する事が有り難うなり、もう辛抱する事すらもなくなってくるおかげが受けられる。梅の実と云うのは、やはりそれがシソとなじんで梅干しともなった時梅干しの徳である。ね。
 徳を受けさせる、云うならば、ああた方がまぁここでおばしゃまと云われるような時代になったときには、もうそれこそ押しも押されもせん、まあ昔でしたかね、あのう、美登里会の方達の事を合楽の魔女と云うような表現で申しました。強い、いわゆる神様を信ずる心が強い。まあその方達が教会の婦人部の方を牛耳っておったという時代。ね。梅の実会の方達がそれこそ、段々年をとってからおばしゃまと云われる頃には、そういう強い神様を信じて疑わない。自分の信心にいておくお徳を受けていくためには、いわゆる若いときにしっかり、辛抱力を作っておかねばならんと云うことが芯で、昨日は梅の実会が最後まで、そりゃ素晴らしい皆さんのお話を聞きました。
 これは昨日、一時の信行の時に鞍手地区から皆お参りして来られました。鞍手の柴田さんという大変熱心な婦人です。その方が今朝から先生その、お夢を頂いた。それが大きなカボチャがもう湯がいてあるか、煮てあるかしてあるカボチャです。そしてそれを冷凍室に入れて置けというお知らせを頂いた。もう柴田さんあんたに欠けておるのはこれじゃんの、て云うて話した事です。神様が直にこうやって教えて、お前に欠けておるものはこれだ。これをお前が頂いてくれたら、お前が願っておるそれこそ女ながらも、大きな願いを立てておる人ですこの方は。
 だからその大きな願いも成就する。神様は成就させたいばっかりに、そんならいよいよカボチャでいけよ。ぼうぶらでいけよというのは、あれは馬鹿と阿呆の代名詞のようにいわれますから、いうならば大きな偉大な馬鹿と阿呆になれよと。
 所がもう男のような気性の方ですからね、もうお得意さんでもなんでも、間違うたことをいうたりしたりすると、もうそれこそ喧嘩にして帰られるような所があるわけです。馬鹿と阿呆になりきれん。それが一番欠けておる所だから、しかも冷凍にしておけ。いつでも引き出して頂けるようにという。もう神様が本当に噛んでふくめるように、もうどげな馬鹿でもそれこそ分かるように、お知らせ下さってありますね。今の大塚さんの所のお知らせと云い、梅の実会の方達の頂いておられることと云い、いわゆる柴田さんが頂かれておることと云い、そうです。
 これも昨日梅の実会にみえておりました方で、子供さんがこういうなら足がなえてしまっている。それで合楽の事を聞いて先ず、そこの山口市におられるお婆ちゃんがとにかく、合楽の参ってみろと、参ってみえて一番に云われたことは、私がここで一年なら一年、二年なら二年でも修行さしてもらうけん、この孫を助けて下さいと云うのが、一番始まりのお参りでした。ね。そして段々信心を頂いて、熱心にまあおかげを頂いて、この頃はその子供も段々大きゅうなってね、連れてくるのにも、もう重たい位になった。
 先日もその親子三人でお婆ちゃんとその子供三人で参ってきて、バスで来よりますときに、お婆ちゃんがしみじみその自分の娘である娘をみて、その孫をみてね、あんたもこの子のために苦労するねと言うて云われた。もうその途端でした、その窓から髪切り虫がパアッと入って来たそうです。皆さん分かるでしょう。ね。そしてその後に、はあっとまあその気付かれてからね、お婆ちゃんこの子供のおかげであなたも合楽に御縁を頂いた。私もそれからなら、この子のために信心さして頂いて、頂いたおかげはもう数え切れない程、おかげを受けておる。
 成る程この子は難儀なことですけれども、この難儀、このおかげで合楽に御縁を頂いたっちゃから、そういう不平不足を云いよったら切れてしまう。髪が切れてしまう。神様が切られたらお婆ちゃんどうするねと云うて親子で話してきたと言うお届けを昨日されました。
 如何におかげで御礼を申し上げねばならん事に云うならばお互いが不平不足を云うておったら、もうお風呂の中に汚い物が浮いておるのと同時に神が切れるのです。如何に不平不足を云うてはいけないか。如何に馬鹿と阿呆でいよいよ豊かな大きな心を願わなければならないか。それには辛抱力がいるんだ。
 こう申しますと、難しいようですけれども、こんなに噛んでふくめるよう手をとらんばかりにして教導して下さるのですから、信心を私共が頂こう、信心を分からして頂こうという構えを作ったら容易いですね。だからおかげおかげというておるとやっぱ信心はいわば、難しいものと云うのは、そういうおかげおかげを云うておる人が信心を難しゅうするのであって、信心の稽古をしようと腹を決め構えが出けた人の上には、私は容易いと思う。ね。
 しかもです、ここには三年五年では迷いやすいと仰せられますから、今のようなお話の所を通っていく中には、云うなら、辛抱仕切れないような時もありましょう。ここはとてもとても馬鹿と阿呆になるわけにゃいかんちいうような所もありましょうね。本当にこの難儀を目の前に見たときに、難儀と感じて不平不足も出るような時もありましょうけれども、はっと気付いてこりゃ、悔やむ事じゃない、不平不足どん云う事じゃないという風に、それをすっきりと本当なものにしていく為には、三年五年は、まだ迷いやすいという、そこの信心が出けなきゃでけん。
 そういう信心を繰り返しながら、十年続いたらもう確かな、それこそ自分で自分の心が分かる。自分の云うなら本当なことが分かる。私は昨日から申し執りますように、もう様々な難儀な問題、もう手のつけようがない程の問題。借金の苦しみ、家庭の問題ね。人間関係の問題、病気の問題、そりゃもう本当に手のつけようがなかじゃんのというごたる感じである。
 けれどもその人がです、なら、本当な事が分かる。いや、分かろうと努力したら、そこから云うならば解決の手だてというものはついて来るんだと。云うならば肉眼をおいて、心願を開けとおっしゃるから心願の開ける迄が、十年間あるね。それをここでは心願は開いておらんけれども、心願を開くとこうばい、心願で見ると本当な事はこうばいと教えていただくから、それを行じさせて頂いとると、成る程、親先生が云われるとおり、これが本当であったと分かる。その分かることが積もり積もって十年。それこそわが心をまつれと仰せられるような心の状態にも、心が育って来るのでございます。
 如何に神様から直に、ね、今のカボチャのお話といい、梅の実会の話と云い、お風呂の話と云い、又実際の上に起きてくる様々な神様のお声と云わずにおれない、思わずにおれない。それこそ自動車のナンバーの中からでも、もの云おうとして下さる神様。
 云うなら不平不足を親子で云おうとした途端に入って、バスの中に、今頃髪切り虫なんか少ないと思うです。けれどもその少ない髪切り虫がパッとはいってきたち、間髪入れずね、そこにはあ、不平不足だんいうだんじゃない御礼申し上げることだったとまあ、気付かせて頂く。
 そう云うところがです、三年五年続いてそれが十年続いたら、我ながらわが心をまつれれるようになるのです。それを目指さなけりゃいかんのです。だからおかげを目指すじゃなくて、どうしても信心を頂こう、信心の構えを作るということになれば、そのくらいな修行はしなければ頂けませんよね。
 あの世にももっていけ、この世にも残しておける人間の一番最高のものを頂こうとしておるのですからね、例えば楽器の稽古やら、柔剣道の稽古するだけでも、やはり本気で稽古しなければ上達しないのと同じです。本気で信心の稽古しよう今日はこういう御教えでいこうと、こう構えを作っての日々でなからなきゃいけないと思うね。                         どうぞ